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幹事の責任とは [雑記]

世の中、いろんなことで「幹事」になる人って多いと思う。でも、幹事の仕事って多いよね。それを使って、利益でも上げてしまった日には、糾弾されたりもするし、手を抜けばいろいろ言われるしで大変だろうなぁって思うんだ。今回は、そういう人の話をしよう。
 その人は、学童保育所の父母会で、いろんなことをするイベントの担当になったんだ。学童保育、児童館、子供の部屋、子供ルームと各地でいろんな言い方をされているとおもうけれど、要は小学生の保育所のようなところ。両親ともに仕事をしていて、夕方小学校から帰宅する子供たちの一時的な預かり場所といえる。そういうところに預けている両親、あるいは片親の一人だから、当然、忙しいのさ。
 生活費と学費のために一生懸命働いて、家では家事もこなして、残業すべきだったことを自宅で夜中にやっている。そういう人なんだ。
 
 ほかのご両親も自分とおなじように、大変な思いをしているのなら、自分ができることはしてあげようと思っているその人は、学童保育の父母会でいろいろなイベントをするときに、必ず中心にいた。けれど、決して暇じゃないんだ。他の人ができないという。でも、だれかがやらなければならない。ならば、自分がやってあげようという責任感の強いやつなんだよ。

 難しいのはここだ。
 あるイベントのために彼は、プランを立てねばならなかった。それは、子供と親たちをみんなまきこんで、合宿のような旅行をしようというものだった。毎年やっていることだから、ここでやめるわけにはいかない。彼がやらなければならない仕事はあまりに多かった。しかも年末年始にかけて自分の仕事にいきなり多忙なことがやってきた。彼はサラリーマンだ。いわれた仕事は休日出勤してでもやらなければならないが、子供の相手もしなければならない。いつもいつも一人ぼっちにしている子供を年末年始にいたるまで一人にしておくことはできないよと彼は独り言をいう。
 彼は、バスを手配し、しおりをつくり、他の子供たちと親のためにいろいろな手配をしなければならない。アンケートをとってみるものの回収率がわるい。でもねみんな忙しいひとばかりなのだから文句などいえるわけがないと彼は思っていた。彼はみんなの希望をまっていたけれど、それが思わぬ落とし穴になった。
それがため、スケジュールや伝達すべき事項を決定するのが遅くなってしまい、結局、開催前日になるまでしおりを配布することができなくなってしまった。
 それがゆえ、参加するほかの親たちから、非難が相次いだ。
 「本当に実施する気があるのか」
 「いったいどうなっているんだ」
 「説明会くらいできないのか」
 「必要なものを買いに行く時間がないじゃないか」
 「高いんじゃないのか、これは。」

彼は、自分を責めた。
確かに忙しかった。そして、それでもなんとかなると思っていた。
他の父母たちと話す余裕も時間もなかった。
けれど、みんなわかってくれると思っていた。みんな同じような境遇の中にいるのだから。
自分は一生懸命やった。でもこうなった。日程どおり、みんなが返事をくれていれば、もっと早くできたかもしれない。

 予定通り、旅行イベントは実施されたが、周知徹底の点では確かに問題があった。予定していなかった家族が参加してきたり、いるはずの家族がいなかったりした。お金の集金も完全ではなかった。でも、最終的にはすべてがうまく完結した。
 彼は、ひどくおちこんだ。人がやりたがらないことを率先してやったんだ。
 自分のできるかぎりのことを家族を犠牲にして、やってきた。
 結局は何事もなくうまく終わった。一部の家族からはいろいろクレームもあったけれど、いろいろな父母の協力もあって、ほかの家族たちからは、ねぎらいのことばとともに楽しかったという感想ももらった。

 それでも、彼はあまりいい気分ではなかった。もう、幹事はしたくないと思った。
 でも、みんな幹事は引き受けたがらない。結局は実績のある彼のところにいろんなことがやってくる。

 私は、引き受けた責任があると思う。引き受けた以上、それをあるレベル以上で完遂することを期待されるからだ。
 しかし、みんな大変な生活を送っている中で、私的なわずかな時間を犠牲にして、みんなの時間を救ってくれている彼の精神は敬服できるものだ。

 もし、それが仕事としてのことならば、期待されていることを、納期までにきちんとやり遂げることが大切だと思うが、今回のような場合どうなのだろう。
 幹事は、ギャラの発生する仕事ではない。ボランティアである。
 幹事にとっての優先順位とはなんだろう。自分と子供の時間を犠牲にさせて、みんなのために働けといえるものなのだろうか。
 きちんと伝達がなされなかったことで、彼は責められるべきものなのだろうか。
他の父母の協力を彼は仰ぐべきだったのだろうか。
 
 だれしも、「じゃ、あなたがやってよ」といわれて、できるものではない。かといって、ルーズにやっている作業を寛容にみていられるものでもないのだ。
 幹事は「どこまでみんなに甘えられる」ものなのだろうか。彼らはかなり孤独なのだ。「やってらんねぇ」と思うことが日々のしめくくりだったりする。
 「なんで、一生懸命やってる私が、こんなに責められなければならないのか」

 快く引き受けてくれた幹事の心の痛みと期待値を裏切られたこととのハザマを我々はどのように捉えるべきなのだろうか。


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コメント 3

ココロの叫び、ですよね・・・
見ていて言いようのない痛さが伝わってきました。

私はまだ町内会での活動しかないので、
ここまでは言われないにしても。
今後色々有りそうですし。

常に思うことは、
どうして非難する人はそこまで我が儘に振る舞えるのか?
非難する暇があったら、自分でやってみろ!
自分でやってみて同じ痛みを感じてからものを言え!
・・・ですね。

そういう親を見た子供はどう思うんですかね。
by (2005-01-29 13:34) 

櫻華(さくら)

読んでいて胸が痛くなりました・・・
もちろん、幹事を引き受けた以上、責任は発生して当然。
でも、人任せでのらくらしていた人は文句を言える立場じゃない。
「お互い様」ということを忘れているように思いますね。

地元の体育大会のお手伝いをしていたとき、地区のまとめ役として一生懸命頑張っていたお父さんがいました。
でもリレーは惨敗。当日、参加せずに昼間から酒飲んでたある男性が、まとめ役のお父さんへ文句つけてました。
『もっと早くから選手集めしてれば勝てたのに』
それを聞いていた子供たちが、まとめ役のお父さんを真っ先に庇ってくれました。「だったらおじさんがリレー出ればよかったじゃん」と。
責任を果たそうとしている人を罵ることほど醜いものはないし、見ている人はいるものだなぁと実感した出来事です。
特に子供はよく見ているものですよ~。
by 櫻華(さくら) (2005-01-31 11:52) 

dancholo

幹事をすることで、おいしい想いをしている人も多いとききます。役得というのもある程度容認されているのでしょうね。
しかし、まじめに一生懸命、気くばりをしてすりへっている人もいます。その人にとっては「ねぎらい」の言葉もなく、当然のように思っている傲慢な参加者たちを切ない笑顔で相手するのが精一杯だったりもするのです。
ただ、集団の動きを制御しなければならない以上、やらねばならないことに遅滞をきたすことはさけなければなりません。とても、難しいところだと思うんです。「遅れても許してくれる」傷口のなめあいは、だんだん、幹事や幹部の私物化を許容していくようになるでしょうし、まわりから見えなくなっていく閉鎖空間を生みかねません。
幹事も理事もPTAもそのようなリスクをはらんだ空間です。それを他の人々が支えていくということが、具体的にわからないところです。
私自身は、引き受けた以上、それはやらなければならないことだと思っていますから、事情があるにせよ、遅れた結果はなんらかのマーキングにあってしかりだと思います。
ですが、自分の身にてらして、それを糾弾するという気にはなれません。顔で客観的に、心は泣いているという複雑な感覚です。コメントをいただけて恐縮です。とてもありがたく読みました。
by dancholo (2005-01-31 23:01) 

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